Life & Music

シモン・ゴールドベルクの生涯と音楽
第2話

ベルリン・フィル黄金期を
担った青春

妻 美代子による、北日本新聞に掲載された文章です。

十世紀を代表する稀代のヴァイオリニスト、シモン・ゴールドベルクは、1993年7月19日未明、富山県立山で84年の生涯を閉じた。

ールドベルクの生涯は、激しく変動する歴史の流れと共に数奇な展開を重ねて行った。彼の生地、ポーランドも、中部ヨーロッパの現代史の中で、地理、政治地図を幾度もぬり替えられている。

19世紀後半から、覇権を争う五つの列強、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランス、イギリスの力関係が徐々にバランスを崩していくなか、思わぬ事件をきっかけに勃発する第一次世界大戦。5歳だったゴールドベルクはこの時、たまたま母の療養のために当時のオーストリア領であったボヘミアの保養地、カールスバードに行っていた。至る所から降って湧いたような出征兵士団に囲まれてのポーランドへの帰路は、のちに彼が旅する自由世界への道程の険しさを暗示するかのようであったらしい。

数百年間ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の滅亡、新興の強大な軍事国家ドイツの敗戦。一方で、ばらばらになった多民族の各民族ごとに燃えるナショナリズム、各民族自らの困難な国づくりとの格闘。高まる反ユダヤ感情、そして世界を襲う大恐慌。この戦後の混乱から、僅か15年経たずして見る見るヒットラーの野望の餌食となっていったドイツだが、1920年代のベルリンの文化面に於いての活力は、ヨーロッパのどの大都市にも勝るものであったと聞く。三つのオペラ劇場は毎夜賑わい、前衛作家ブレヒトの新作が一夜に二回、8時〜10時に続き深夜11時から午前1時と上演される等、例は枚挙にいとまがない。

ールドベルクが少年から青年へと成長していく背景にはこのようなベルリンがあった。音楽界では、リヒャルト・シュトラウスをはじめフルトヴェングラー、ランドフスカ、シュナーベル、クライスラー、そして当代きってのヴァイオリンの名教師と仰がれたフレッシュ達が、皆50歳前後の壮年で精力的に活躍していた。神童、天才少年といったレッテルを嫌うフレッシュの許で、幼いシモンは確実な「将来への保障」となる基礎を8年間徹底的に身につける。それは、ヴァイオリン奏法の技術の練磨に留まらず,古典の様式、音楽の真髄を識るための全般に関わる深い教養であり、フレッシュの薫陶は、ゴールドベルクの天与の才能を一層力強く支える基礎を築くものとなったと言えよう。のちに、彼は回想して言っていた──男の25歳といえば肉体も精神も最も力の漲っている大事な齢に、自分は、住む国を求めて各国の領事館の待合室でヴィザの許可がおりるのを、ただただ待つ日を送らねばならなかった。非常に限られた練習時間しかないままに技術を磨くことが可能だったのは、フレッシュの許で受けた基本訓練によるものであると──。

ベルリンデビューの一年後、1925年16歳のゴールドベルクはその稀有な資質を乞われて、エーリヒ・クライバーが首席指揮者であった名門オーケストラ、ドレスデン管弦楽団のリーダーに抜擢される。史上最年少のコンサートマスターの誕生に周囲の驚きがいかに大きかったかを語るものとして、カフカの友人、マックス・ブロードが当時、ゴールドベルクに宛てた祝福の手紙が私の手許に残っている。

れから四年、フルトヴェングラーの懇請を受け、ベルリン・フィルハーモニックの第一コンサートマスターに就任するゴールドベルクは19歳であった。記録を見ると、ベルリン・フィルハーモニック史上最若年・最優秀のコンサートマスターと記されている。

フルトヴェングラーは、「ドイツ音楽の正統を守るため、シモン・ゴールドベルクはベルリン・フィルハーモニックにとって不可欠な人材である」とし、その地位は就任当初から、常任指揮者であるフルトヴェングラーが指揮台に立つ時のみコンサートマスターを務めるという、極めて異例の特権も加えて守られていた。ヒトラーとナチズムの政権奪取に続く暗黒の日々の到来まで、黄金時代を謳歌したベルリン・フィルハーモニックにまつわる両者の逸話は数多い。在任僅か4年で迫り来る危機にゴールドベルクが国外退去したあと、フルトヴェングラーがフレッシュに送った書簡に次のような一節を見付けた。「私が、光輝あるドイツ音楽の歴史が危機に瀕することから守るために仕事を続けるには、絶対必要な人物がゴールドベルクであった。彼が楽団とドイツを去らねばならない理由はわかるが、私は、彼が私と私の仕事を見捨てていってしまったという気持ちを隠しきれない」。

十歳前後の若さにして世界の大指揮者、クライバーやフルトヴェングラーから全幅の信頼を寄せられていたゴールドベルク。時代は第二次世界大戦突入に向かって走り出し、ユダヤ人狩りと大量虐殺の悲劇を前に、ナチスドイツは、ことヴァイオリンの分野においてドイツ音楽の正統を依存していた二人、ハンガリー出身のフレッシュとポーランド人であるゴールドベルクを失う。誠に皮肉な結果である。

(1998年7月8日掲載)